合気道の灯

 やっと梅雨が明けたと思ったらいつの間にかお盆に突入!晴れ晴れとした日が続くが、昼間は焼けつくような暑さでコロナでなくても外に出たくなくなる。でも朝は涼しく、日暮れがちょっと早まった気がする。もうしばらくすると、夕焼けの中で無数の赤とんぼが田畑を飛び交い、道端には真っ赤な彼岸花が並ぶだろう。

 普段は日常に追われて全く意識していなかったが、今年の8月はテレビ番組を見て戦時中の日本を思い起こした。次々と映し出された広島原爆投下前後のアメリカの軍事作戦、原爆投下後の映像や写真。その他にも、小学校か中学校ぐらいの子達が機敏な動きで中心に据え付けられた巻き藁を取り囲んで、えいっとばかりに竹やりで突き刺す映像があり一瞬ぞっとした。生命が脅かされるような緊急事態の下では善悪や価値観も簡単にひっくり返り、自由に考えて発言したり行動したりすることは許されなくなるのかもしれない。

 そういえば学校に通っていた頃は8月6日は登校日で原爆の惨禍について振り返っていたなあ。小学校の修学旅行は長崎の原爆資料館だったが、そこで無残な形で焼け焦げた人間や、建物の壁に人の影だけ残っている写真を見た。熱で変形したガラス瓶や原爆投下時刻で止まった壁時計もあった。旅行から帰ってもそれらの物や写真が頭から離れず、夜の闇の中でうっすら見える家族の寝姿が写真で見た黒焦げの死骸と重なり余計に怖かった。飛行機の音を聞いていやな感じがすることがあったのは、そのころに見た戦争映画やアニメの爆撃機やその音の影響だろう。

 合気道も、東京大空襲の状況下で、開祖が建てた合気道専門道場を植芝吉祥丸二代道主が戦火から必死に守り抜いたとのこと。戦時下は稽古をすることは出来ず、終戦後も避難所として開放されていたそうだ。(合気会公式ホームページの道主の挨拶文より)

 その戦争も昭和20年8月15日で終わったが、敗戦後の大惨状の中を必死に生き抜いて復興し、今につなげてくれている世代がいる。新型コロナウィルスの問題はあるが、徴兵制度もなく言いたいことが言えて、飛行機の音を聞いても逃げまどわなくてもいい時代に生きている私は本当に有り難いことだと思う。

 戦前ではなく戦後の合気道と出会えた私。これからも建設の武道として合気道の灯はともり続けると信じている。 

 

都城合気道錬成会 都島道場小林教室担当 伊達